MASTER:鮎
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File#2 殷周革命後の周

今回は革命後の周のお話。といっても、こっちの現実世界の「歴史」のお話です。
(といっても史記とかに書いてあること、だけどね)

自分が学生だった当時は殷が中国最古の王朝と習ったので♪殷周秦漢三国晋~とか歌って覚えたわけですが、今は夏も付け加えて歌ってたりするん でしょうか?
それはともかく、この革命後に誕生した周という国はずいぶんと長い歴史を持つ国で、この歌の通り次の秦の時代になるまで約800年もの間続き ました。
とはいっても、まともに中国大陸の大国として機能していたのは300年程度で、それ以降は小国として存続していきました。
今回の雑記では落ちぶれる前の所謂「西周」と呼ばれた時代のお話がメインになります。


1 武王の死と弟達の反乱

いきなりあれですが、革命後、武王は戦後処理と論功行賞を行って間もなく病没します。(革命後わずか2年、と言われています)
彼の後を継いだのは幼い武王の遺児・姫誦でした。幼少のためにまだ大革命後の混乱期にあった周をまとめるには難があるとして、姫誦は成王とし て即位したものの、摂政・周公旦が甥っ子の代わりに政務を執り行うことになりました。(太公望や成王の母・邑姜ももちろん手助けしてます)

ところがいつの時代も幼少の王と先王の兄弟たちという組み合わせはいろいろな不穏分子を抱えているわけで、この時も周公旦が王位簒奪を狙って いると非難した彼の兄弟・菅叔鮮と蔡叔度(※1)が紂王の遺児・武庚(※2)と共に反乱を起こすにいたりました。(これを三監の乱という)
この乱の首謀者について詳しく見ていくと、菅叔鮮は姫昌の3男、蔡叔度は5男。3男の自分を差し置いて弟の周公旦が摂政になっていることが気 に食わない、という割とありきたりな不満が見えてきそうです。

周公旦たちが政治を取り仕切っていることに不満を持つものが多くいたこと、そしてかつての大国・殷に忠義を誓うものも多くいたことが周王朝に とって誤算だったようで、王室はこの反乱を鎮圧するのに3年以上かかってしまいました。(太公望たちが率いた軍だけでは鎮圧できず、周公旦と 邑姜が加わった「親政軍」を率いての戦いにまで発展した)
それでもなんとか首謀者であった3人を捕らえると、武庚と菅叔鮮は処刑、蔡叔度は流罪にして乱を治めました。反対勢力の力を危険視した周王朝 はかつての殷の勢力が大きかった土地の東部を紂王の兄・微子啓に、西部を文王の第9男の康叔封(衛康叔)に与えてその勢力を2分しました。

※1 菅叔鮮と蔡叔度は名前に「姫」がつきませんが、例えば菅叔鮮の場合、元の名は「姫鮮」もしくは「姫叔鮮」でしたが、論功行賞で「菅」の 国を与えられために「菅叔鮮」と呼ばれるようになったそうです。蔡叔度も「蔡」の国を領地としてもらっています。実はこの両国とも殷の旧領地 に近く、2人の本来の役目は殷王室の生き残り・武庚の監視でした。(武庚は革命後殷の祖先の祭祀を執り行うために処刑を免れ、殷の旧領地を与 えられていました。)ちなみに2人とも「叔」の字が名前の中にありますが、伯邑考の「伯」は長男を、菅叔鮮らの「叔」は2男を表すそうです。 ついでに仲は3男、季は末っ子。と考えると、ルール上姫発も叔がつきそうなものだが…このあたりの名前のつけ方はよくわからないので放置。

※2「封神演義」でも実はちらっと3人の名前が出ています。なお、安能版では武庚は妲己の侍女・鯀捐と紂王の間にひそかにできた子供という設 定になっていますが、史書には武庚の母やその妻子についての記述はないそうです。

2 姫家一族

姫家一族は人数が多い。というのも、「封神演義」によれば姫昌さんには20人以上の妻と100人近くの子供がいたというんですから(多少の誇張はあれども、多くの妻と子供 がいたことは間違いなさそう)、それを考慮すると家系図なんて書くのは無謀すぎる!
でも封神の記述はさておき、史記などに見える家系図なら人数も絞れて書きやすいんじゃね?と考えて書いてみたのが以下。

姫家系図(史記・他)

文王の正妃・太姒は10人の子供をもうけていますが、他にも多くの妃がいて、多くの子供がいたように思われます。
菅叔鮮・周公旦・蔡叔度以外の兄弟については詳しく触れませんが、一応概略だけ書いておくと…

曹叔振鐸
革命後、曹の国を与えられる。
成叔武
革命後、成の国を与えられる。
霍叔処
革命後、霍の国を与えられる。
菅叔鮮らと共に武庚の監視役の任に当たっていたが、一説によれば彼もまた乱に加わり、敗北後身分を剥奪された。
国は息子が継いだらしい。
衛康叔(康叔封)
三監の乱の後に旧殷領の西部の土地(衛、朝歌を含む土地)をもらってそこを治めた。
赴任が決まった時はまだ若かったらしく、周公旦は危惧して善政をしくようかなり指導したらしい。
おかげで民にもよく慕われ、成王の世になった後も王によく信頼されたようである。
毛叔鄭
革命後、毛の国を与えられる。…ボー○ボとは関係ない。
冉季載
革命直後は幼かったため、任地を与えられなかった。三監の乱後冉の国を与えられ、成王の世では重職につい て王を支えた。
滕錯叔
革命後、滕の国を与えられる。
畢公高
文王の子なのかどうかは諸説ある。革命後、畢の国を与えられる。


と、こんな感じです。

それと対比して、武王は妻が1人と子が2人+3人(この3人については詳細不明。正妻の子ではない可能性あり)、というなんとも寂しいもので す。最も、その生涯は大革命に費やされ、革命後間もなく死亡したことから仕方ないかも。

武王の子供たちについてですが、正妃・邑姜との間に生まれたのが確実なのは跡継ぎの姫誦(成王)のみ。史記には弟として姫虞(唐叔虞)がいた とされますが、呂氏春秋という書物(呂望や呂邑姜の「呂氏」とは関係ありません)には異父弟(?!)と書いてあったりします。史記にはない弟 たちの名前として邘叔、応叔、祁叔という名前が春秋左氏伝にもありますが、こちらも母親が不明のため、正妃の子供ではない可能性もあります。

なお、成王の弟・虞についてはその昔成王がお遊びで虞に封建の儀式(領地を分け与える儀式)の真似事をして遊んでいたところ、宰相に本気にさ れてしまったというお話があります。

成王「遊んでただけなんだけど…」
宰相「『天子に戯言無し』ですから弟君には領地を与えませんと」
周公旦「ただいま唐を征伐して帰国いたしました」
宰相「じゃあその唐を与えることにしましょう」
成王&虞「mjd」

とまぁ、こんな感じで唐(♪殷周秦漢三国晋~の歌に出てくる唐じゃないですよ)に封じられ、虞は唐叔虞と改名して任地へ行ったそうです。後 に晋という名前になり、西周が倒れた後の春秋戦国時代で重視される勢力(戦国時代の始まりはこの国から韓・魏・趙が独立した時点から)を生み ます。

ちなみに跡継ぎである誦が生まれた時期について、詳しくは不明です。ただ、三監の乱の7年後に周公旦が成王に政権を返し成王の親政が始まった と言われているので、そこから考えてみると…

  • 革命後武王が亡くなるまでに2年
  • 直後に三監の乱が発生、収めるのに3年かかった
  • さらに7年後に成王親政開始

ここから考えると、革命直後に生まれたとして親政開始が12歳…あり得なくもないような微妙な年齢だな…。


3 西周の滅亡

武王の後を継いだ成王、そしてその子供の康王の時代に至って周はようやく周辺諸国に対して確実な支配力をつけ、かつての殷と同じ立場に立つことができるようになりました。 その後異民族の討伐中に王が死んだり(4代目昭王)、西王母に会いに行ったりする王も出ましたが(5代目穆王)、概ね異民族を討伐したり防い だりしてなんとか10代目の王まで国を繋ぎました。
そしてこの10代目の王から少しずつ周の運命が落ち目に入っていきます。

10代目の王・厲王は賢臣をないがしろにし、代わりに自分の機嫌を伺うばかりの臣下ばかりを重用して暴政を行いました。民衆は怒り、王宮に侵 入して王を暗殺しようと暴動を起こしたので、厲王は命からがら王都を脱出しました。残された臣下は王不在のまま、共和制という形で国を治める ことになりました。
結局厲王は王都に戻ることはなく、共和制が始まってから14年後に逝去、王位は厲王の子・姫静が継いで宣王となりました。宣王は共和制の間国 を支えた臣下たちと共に善政を敷き、周王朝久方ぶりの平穏な時期をもたらします。
が、それもつかの間、宣王の子・幽王の治世に周王朝は決定的なダメージを受け、没落していきます。
その決定的なダメージとは、一言で言うと「異民族の侵略」なんですが、原因はそこ以外にもあるという有名なお話がひとつ。

第12代目の王・幽王の治世、褒という国が王の怒りを買ったため、贖罪として褒姒という美女を幽王へ献上し た。この褒姒という女性、出生がかなり謎に包まれており、捨て子だったとも、夏の時代に現れた竜の吐く泡から生まれたトカゲと未婚の少女の間 に生まれたこともいわれていたが、とにかく絶世の美女であった。
幽王は正妃・申后と皇太子・宜臼がいるにもかかわらず彼女を溺愛し、とうとう褒姒を正妃に、彼女との間に生まれた王子・伯服を皇太子に取り立 て、申后と宜臼の位を剥奪してしまう。申后はこれを恨んで父・申侯に訴えたため、両者の関係が酷く悪化した。
ところで、褒姒は大変美しい女性ではあったが、全く笑わないことでも有名だった。ところがある時、たまたま絹が裂ける音を聞いた褒姒がふっと 笑ったから大変。王はとち狂ったように全国から大量の絹を集め、褒姒の前で引き裂かせた。しかし王の努力もむなしく、褒姒は最初の方こそ笑っ てはいたが、次第に飽きたのかまた笑わなくなってしまった。
ある日、手違いで烽火が上がり、王都・王宮に異変があったのではないかと多くの諸侯が王宮に集まるという事件が起きた。すぐに間違いだったと わかって諸侯は一安心の、この騒ぎを見た褒姒はみんなが息を切らせて集まってきたことに大笑い。王は今度は烽火を上げて有事でもないのに諸侯 を集め、褒姒に見せてやるという愚行を繰り返すようになった。
そんなことをやっているうちに、先の正妃の父・申侯は周辺の諸侯や異民族であった犬戎 (後の匈奴)と手を組み、大軍を連れて反乱を起こした。王はこれは大変だと烽火を上げたが、またいつものお遊びと思った諸侯らはなかなかすぐには集まらず、結局申侯らによ り王は捕らえられて処刑、ここで一度周王朝の歴史は幕を閉じた。

まるで狼少年の話みたいですね。
周王朝はこの後前の皇太子・宜臼が平王として即位し、遷都して何とか王朝をつないで生きますが、以降は歴史区分上東周と呼ばれ、権威しか持た ぬ小国としてなんとか国が保たれていくという割と危うい時代(いわゆる春秋時代)に入っていきます。



参考文献
  • 広辞苑(第6版) 電子辞書版/2008年
  • 新釈漢文大系 38 史記一(本紀上)/明治書院/1973年
  • 新釈漢文大系 85 史記五(世家上)/明治書院/1977年
  • 新釈漢文大系 6 荀子 下/明治書院/1969年
  • 新釈漢文大系 32 春秋左氏伝 3/明治書院/1979年

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