全盛期の頃はよく言われてた「安能版は封神演義の訳書ではない!」というお話について。
今でもちらほら見かけますが、安能版は楊戩や哪吒の名前の読み方を間違えている上、申公豹の扱いがまるで違う、と指摘されており、一部の人か
らは諸悪の根源かのように叩かれていることもあります。
ここまでぼろぼろに言われている最大の原因は「安能務・訳」となっていること、つまりまるで「翻訳書」かのような体裁になっているという点。
日本では無名だった「封神演義」が有名になったきっかけは安能版だったため、それがあたかも「本来の封神演義」のように扱われてしまったとい
うのが問題でした。
…じゃあ「本来の封神演義」って何?って話ですが、もともとが講談なんだし、語られる時代によって内容は変遷しているはず。
人によって、時代によって「本来の封神演義」の指す内容が違うような気がするんですよね…。
と言ってても始まらないので、手持ちの資料から「全訳
封神演義」(全4巻)と比較してみました。(補足資料として八木原一恵・編訳の「封神演義」もとりあげています)(2019年1月31日追記:全訳版が出たことから、改め
て全訳版との比較に変更しました。内容はほぼ変わりません)
※以下、太公望の名前については「姜子牙」で統一しています。
よく「アレンジ版封神演義が安能版を基にしているか、原典を基にしているかを見分けるポイントは申公豹の扱い方」といわれます。
そう言われるほどに申公豹の扱いが両者では大きく違います。
簡単にまとめてみました。
全訳版 | 安能版 |
---|---|
師匠は元始天尊、姜子牙は申公豹にとっては兄弟子に当たる(修業年数は申公豹の方が長い) | 師匠は元始天尊、姜子牙は弟弟子? |
老子との関係は特にない | 老子は申公豹の特別庇護者 |
姜子牙の弟弟子にあたり、位も道士なのでそこまでえらくない | 老子の特別庇護があるためか、女媧に対してもえらそうな口が利ける |
人であった頃の経歴については言及なし | 人であった頃は許由という名前で、帝位を断ったという徳の高い人間だった |
封神計画における行動理念は計画実行者の姜子牙に対する嫉妬 | 封神計画における行動理念は天数とその信奉者に対する嫌がらせと正義の行使 |
最後は分水将軍という神に封神される | 封神されない |
乗騎は白額虎。しゃべらない。特殊能力もない。 | 乗騎は黒点虎。おしゃべりする。いろんな特殊能力を持つ。 |
所持宝貝は開天珠(王魔ら四聖も使っていた) 雷公鞭は登場しない |
所持宝貝は老子からもらった雷公鞭 |
と、まぁ代表的なところを上げればこんな感じです。
光栄翻訳版では徹底的な悪役として姜子牙を暗殺しようとしたり、周軍が頭抱えて困り果てるような敵を送ったりなどする申公豹ですが、安能版で
は姜子牙に仙界を革命に深く関わらせないようにしてくれ、と頼んでみたり、二王子に「悪いのは妲己だけで、彼女さえ取り除けば紂王も元に戻
る、子が父を討つとは何事か」と諭しているなど、自分の正義にのっとった、割とまともな行動をしています。
申公豹の話に続いて有名なのがこのルビ間違い。特に楊戩や哪吒の例が有名で、安能版では「ヨウゼン」「ナタク」ですが、本来は「ヨウセン」
「ナタ」が正しいとのこと。
他にも聞仲が安能版では「モンチュウ」、正しくは「ブンチュウ」、武吉も安能版では「ブキチ」、正しくは「ブキツ」、楊任は安能版では「ヨウ
ニン」、正しくは「ヨウジン」なのだそうです。
ただ、哪吒に関しては封神演義関連作品以外でもガンダムW(1995年)やX(1992年)、最遊記(1997年)でも名前の読み方が「ナタ
ク」なので実は別ルートもあるんじゃないの?と思ったりもします。
…安能氏の「封神演義」が1988年発行なのでもちろんそこから影響された可能性もあるんですが、そのあたりの流行とかよくわからんので放
置!
※でもこの読み方って中国語の発音を基にしてるんだとすれば、ルビ間違いとか云々って正直どうなの、と思うところはあったり。だってアメリカ
で「マクドナルド」といっても通じませんが、「マックドーノー」(ドにアクセント置いて言う)なら通じる=マクドナルドは間違
い、ってことになりません?そういう突っ込みはなし?
気を取り直して、次に漢字間違い。光栄翻訳版他では「崇侯虎」となっていますが、安能版のみ「崇候虎」になっています。
これは訳書としている上小説家である以上、漢字ミスはまずいといえばまずい。
他にも「嬋玉」が安能版では「蝉玉」になっていたり、東伯侯の名前が「姜楚桓」になっている(正しくは「姜桓楚」)になっているなど、わりと
これは素人目に見てもちょっと…というミスもあり。
おそらく他にも探せばちらほらあるかもしれませんが、目が痛い・めんどくさい・面白くないの3大理由により粗探しはこれ以上しないことにしま
す。
封神の登場人物の年齢ってどれくらいだろう(主に人間)と思って安能版を鉛筆片手に読んでいた時期があります。
その安能版の中に、以下のような記述があります。
紂王二十一年の元旦。
(中略)
「お互いにまた一つ年を重ねましたね。夫人はおいくつに?」
「わたくしは虚しく歳を過ごすこと四十九でございます。」
「ではわたくしとは八つ上のおねえさまですね。」
安能務「封神演義」中巻・第30回 「周紀が武成王の造反をそそのかす」より
一緒に卓を囲んでいた飛彪、飛豹の二人の実弟と、そして四人の義弟は、声を呑んで涙を流した。かたわらで、十四歳の長男 天禄、十二歳の三男天爵、七歳の四男天祥が、肩を抱き合い声を上げて泣いている。
安能務「封神演義」中巻・第30回 「周紀が武成王の造反をそそのかす」より
二つの引用文のうち、上は賈氏が黄貴妃に会いに正月後宮を訪れた際、妲己と出会って交わした会話の一部(台詞は妲己→賈氏→妲己の順)、その
下の引用文は賈氏と黄貴妃の訃報を聞いた直後の黄家の様子を書いたものです。
さて、ここで疑問に思うことは何でしょうか。
ということで、年齢設定に少々無理が生じていると思ったわけです。これについて、一部のHPや某掲示板サイトの封神スレでは、安能氏の翻訳に
間違いがあるのでは、という指摘がありました。
どういうことかというと、原文での彼らの年齢について、賈氏はこの正月の事件においての年齢は「四九」と表記されているということ。
中国では年齢表記を「四九」とした場合、それが示す数値は4×9、即ち36歳と考えるのが普通だそうで、そうなると
という計算になります。これなら納得がいく。
(なお息子たちの年齢ですが、手持ちの中国語で書かれている封神演義の天禄の年齢表記は「十四」となっていました。「十」と書かれている場合
は掛け算しない、というルールがあるなら彼の年齢はそのまま14歳と解釈してよいかと思います。)
※2018年1月11日追記 手持ちの訳本(八木原版)を確認したところ、賈氏さんの年齢は36歳と翻訳されていたので、やはり安能版の年齢
は訳ミスであるとの判断でいいかと思われます。
えらい直接的な表現しましたが、これも安能版が叩かれる理由の一つです。
そもそも竜吉公主の設定ですが、彼女は元々仙人ではなく、天界(WJ版にはそもそも天界という世界が存在しないですが、封神演義の世界では仙
人界の他に天界という世界があります)の住民です。その天界を治める天帝と瑶池金母(西王母)を両親にもつ天界人だった彼女は、ある時罪を犯
して仙人界に降ろされてしまったのですが、その罪の内容が安能版と光栄翻訳版他ではかなり異なります。
「ある年、蟠桃会で酒を奉じるとき、天宮の決まりを犯したので、鳳凰山青鸞闘闕に落とされたのです。」 許仲琳・編「完訳 封神演義」中巻・第55回 「土行孫が西岐に帰順する」より
竜吉公主は、もともと昊天上帝と瑶池金母の娘であったが、出家したあと俗界に心を動かしたので、鳳凰山の青鸞闘闕に身を落とされたの だった。
許仲琳・編「完訳 封神演義」中巻・第64回 「羅宣が西岐城を焚く」より
「蟠桃会(仙人たちの宴会)に花のお酒をたてまつらなければならなかったのに、まにあわせることができず、きびしい天のしきたりに触れてしまい、罰として人間の世界におろ され、この鳳凰山の青鸞闘闕で暮らしているのです」 八木原一恵・編訳「封神演義」三十 「運命の糸」より
まとめるとどうやら蟠桃会の際に何かしらの重大なミスを犯したことが公主の罪のようです。あまり具体的ではないですが、これ以上のことは書かれていません。ところが、安能 版ではその罪の内容について蟠桃会の失態云々については触れられず、その代わり彼女の罪を以下のように説明しています。
まず、竜吉公主は天界一の美女だと白鶴童子は言う。続けて、別に悪いこともしないのに、ただ彼女を天界においていたのでは眩しくて、聖人の瞑想の妨げとなり、天人の精神衛 生上よろしくない、といっただけの理由で追放されたのだ、と教えられた。 安能務「封神演義」中巻・第54回 「土行孫、大いに武功を輝かす」より
また、楊戩と公主が出会ったシーンですが、ここにも重大な改変が加えられています。以下、内容をまとめてみましたのでどうぞ。
全訳版 | 安能版 |
---|---|
土行孫が師匠の宝貝・梱仙縄を持って勝手に下山、姜子牙たちと敵対 ↓ |
|
楊戩、一度は姜子牙に夾竜山往きを申し出るも、断られる | 楊戩、好奇心で天界一の美女と「下界一の美女」(蝉玉のこと)を見比べたくなったので、夾竜山往きついでに見てこようと思ったが、姜子牙に夾竜山往きの必要はないと断られ る |
事情が変わったので楊戩が夾竜山の懼留孫に会いにいくことに ↓ |
|
途中で道に迷って青鸞闘闕に無断進入してしまう ↓ 公主に勝手に山に入ったことをわびる ↓ 公主、土行孫の一件について楊戩にアドバイスする ↓ 別れて夾竜山へ向かうも、 途中で沼に立ち寄り化け物退治 ↓ 化け物を追って石の穴の中に入り、 長衣と三尖刀を見つけたので自分のものに ↓ 金毛童子と名乗る二人の童子に盗人呼ばわりされるも、楊戩が名前を名乗ると非礼をわびる ↓ 二人を気に入ったのか、楊戩は童子たちを弟子にして 姜子牙の元へ向かわせ、自分は夾竜山へ |
行くつもりは当初なかったが、 考え事をしていたらいつの間にか青鸞闘闕の前に ↓ 美女の品定めというろくでもない好奇心が復活 ↓ 公主に会って、やはり天界一の美女の方が 美しいと判断して満足 ↓ 真夜中の美青年の来訪に公主が大興奮、 ゆっくりしていってと誘惑 ↓ 無下に断ってあらぬ噂を流されても厄介、と 覚悟を決めて一泊 ↓ 朝チュン ↓ 夾竜山到着、懼留孫に笑われる |
原典ファンいわく安能版のような話はない、とのこと。
※ちなみに、光栄から出てるPSゲームはこの安能版の設定からか、公主と楊戩が許婚の関係にあると公主が言い張っています。(楊戩いわく幼い頃
のお遊びの上での約束だから無効のようですが…)
公主の性格もなんだかキャピキャピしてるけど、あれはあれで嫌いじゃない。(ナニガチガウンダローネ)
※フジリュー版では天界という設定そのものがないので、公主のキャラ設定も光栄翻訳版や安能版とはかなり異なっていますが、それにして
も何ゆえ燃燈の異母姉ってことになったのか、このあたりがいまだに疑問です。
あれですか、ただただ強い、終盤でまさかの全キャラ中最強クラスの燃燈が何の欠点もなしに登場したらまずかろうってことでシスコン設定です
か?それはそれでおいしい設定なんだけど両親は誰なのー?
過度な安能版叩きには辟易していますが、そんな私も安能版はあまり好きにはなれなかったりします。その最大の理由はこの「殺劫」の取り扱い
方です。安能版では「殺劫」について以下のように説明されています。
「仙人になっても、一つだけ、どうしても克服できない殺劫というのがある。平たく言えば、仙人になっても、時々殺し合いがしたくなるのだ。それは下界から持ち込んだ本能的 な衝動で、それだけは、どうしても抜き去ることができない。もちろん、仙人たちは、それを懸命に抜き去ろうとする。が、どうしても抜き損ない の部分が残り、それが月ごと、年ごとに積もるが、千五百年もすると、もう手がつけられない。つまり誰かを殺さなければ我慢できなくなる。それ を称して殺戒を犯す、と云うが、殺戒を犯した以上、その殺戒を破らなければ、頭がおかしくなって、心が落ち着かず気が収まらない。そこで殺戒 を破る。簡単に言えば人殺しをやるわけだ。」
安能務「封神演義」上巻・第9回 「商容、九間殿に死す」より「人間出身のわれわれは、千五百年に一度は、殺戒を破る仕組みになっている。それで、いやでも征誅殺伐を行なって、その殺劫を消さなければな らない。」
安能務「封神演義」上巻・第13回 「太乙真人が石機を焼く」より
仙人という、まさに生物を超越したような人たちに「殺しだけはやめられんなぁ」とか言われたら今頃人類滅亡してるよ…。なんとなく俗世的で、仙人らしくないというか、いやまぁもともと安能版は仙人らしいとこあんまりなかったけど……
これに比べ、光栄翻訳版では以下のような扱い。
「われらは千五百年来、人を殺していないことにより、殺人の戒を犯す。そこで、このように人として下界に生まれさせ、いくらか討伐や殺 戮を行うことで、この劫数を終わらせようとしているのだ。」
許仲琳・編「完訳 封神演義」上巻・第13回 「太乙真人、石機を収める」より
「わしは、すでに戒律を犯した身だ。災厄から抜け出そうなどとは思わんさ。因縁は、すでに決まっているのだ。天命に背くつもりはない。 今日は、殺生戒を解いても後悔しないぞ!」」
許仲琳・編「完訳 封神演義」中巻・第50回 「三女仙、計を設けて黄河陣を布く」より
一瞬言っていることが同じのように思えますが、私なりの解釈だとこんな違いになります。
「既に決まっている運命に逆らうことはできない」という考え方は、現代ではあまり通用しない(むしろ「運命を打ち破る」「そもそも決まってい
る道なんてない」というのがお約束)ので、安能版ではその代わりに尤もな理由をつけてみた、というところでしょうか。ここを根本的に変えてし
まうとまさしくアレンジ版封神演義となってしまうので、ある意味苦肉の策だったかもしれません。
でもそこが、個人的な話で申し訳ないのだけれど一番好きじゃない部分なんだよなぁ。
※2019年1月31日追記
なんと封神演義外伝で孔宣くんが「殺劫」について言及
しましたね!フジリュー封神では雉鶏精限定で安能版と原典設定のある意味折衷案のようなもの?喜媚にもきっと「殺劫」は存
在するんでしょうが、妲己の元にいればいつでも解消されてそうで居心地よさそうですね(?)
『封神演義』というお話は、基本的に「運命には逆らえない」ということが前提にあります。それは天帝の住む天界の住人・女媧でさえ、すぐに
紂王や殷を滅ぼすことができなかったことからも明らかです。
ただ、それが現代人に理解されるかと言えばそうじゃない。申公豹もただの我儘な悪役では面白くない。それでは「封神演義」というお話は受けな
い。
そういった事情があって、安能版はいわゆる「原作」から離れていったものと思われます。
ただ、だからと言って安能氏が悪い!諸悪の根源!となじるのはおかしな話です。(そりゃあ訳書と間違われるような書き方をしたのはまずいと思
うが)
最初に書いたとおり、「封神演義」はいわゆる講談から始まっています。つまり本に書かれた物語じゃない。
別に本に書いてあったってたどる道は同じ可能性もありますが、物語は語られる時代により、流行に左右されてその流れを変えられることがままあります。講談なら余計に、観客
に受けのいい話はより受けがいいように、受けの悪い話は省略して…なんてことは当たり前。安能氏が翻訳の際参照した資料や現地の話などから
は、そういった事情で変更された部分もあったかもしれません。
もちろん、安能氏本人が現代人に受けがいいように、と改変した可能性も否定しきれませんが、真相はどうなのか。安能氏は2000年に亡くなっ
ておられるので、本当の所はわからずじまいでしょう。
…でも、個人的な感想言っちゃうと、漢字ミスと年齢ミスはさすがにごまかせないからその点ですでに信用性がないといえばない。(身も蓋もな
い)(あと訳に使った底本も書いてないし、上のミスは完全に訳ミスなので「訳書」としては失格もの、という批判はアリだと思う)
まぁ、あれだ、全部楽しんだもの勝ちってことで!
今回は安能版と光栄翻訳版の比較でしたが、WJ版との比較をすればもう山ほど違うので(というかもはや別物)、興味をもたれた方はぜひぜひ古
本屋や図書館、ネットの古書店等を回って読み比べてみて下さい。
フジリューが泣く泣くカットしたと完全版あとがきで言っていた登場人物や名シーンなどもあるので、二次創作の妄想用にはもってこい…あれ?楽
しみ方が違う?