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File#1 莫邪の宝剣に関する雑学

前身サイトで扱っていた雑学コーナーが微妙に割り増し感で再登場。
一度読んだって人も、知らなかったって人も、楽しんでいただければ幸い。

莫邪の宝剣は天化及びその師匠の清虚道徳真君が使っている宝貝ですが、実はこの莫邪の宝剣は「封神演義」以外にもたびたび登場する、中国の民 話では有名な名剣の一つです。

<干将莫耶・干将莫邪>
中国古代の二名剣。呉の刀工干将は呉王の嘱により剣を作る時、妻莫耶の髪を炉に入れて初めて作り得た名剣二口に、陽を「干将」、陰を「莫耶」 と名づけた。
転じて、広く名剣の意。 「広辞苑」より

昔授業中に電子辞書についてた広辞苑で遊んでて、まさかのヒットに目を丸くして思わずメモった覚えがあります。電子辞書を持っておられる方 は一度手元の広辞苑で調べてみてください(広辞苑ついてなかったらごめんなさい)
広辞苑にも載っているということで、大変有名な名剣のようです。

File#1ではこの有名な干将莫邪にまつわる役に立つかどうか解らない物語を紹介します。

※このページでは様々な書物に書かれた干将莫邪の話を紹介しますが、書物によっては日本語訳者の違いによる若干の差が出たり、○○版といった 同じ書物でも内容が他の版と違うものがあったりします。
当方は専門的知識がないため、版の違いがわかりません。
よって、見つけたもののうち明らかに話の流れが違うもののみ紹介します。



1 「呉越春秋」に書かれている干将莫耶

まず最初に、「呉越春秋」の闔閭内伝に書かれている話を紹介します。
(以下、「捜神記」以外は莫邪の漢字が莫耶となっている)

呉王・闔閭は名工・干将に2振りの剣を作るよう命じた。
干将は最高の材料をそろえ、最高の製作条件を整えてこれに挑んだが、なかなか鉄が溶けず、3ヶ月の時がすぎた。
妻の莫耶は干将の師であった欧冶子がかつて自身の身を犠牲にして剣を作ったことを思い出し、自分の髪と爪を炉に入れてみたところ、ようやく鉄 が溶けた。
干将はこの鉄を使って2振りの剣を作り上げたが、陽剣「干将」は手元において隠し、陰剣「莫耶」のみを王に献上した。
王は献上された「莫耶」を大変気に入り、この剣を珍重した。

ある時、魯の国から使者がやってきたので、闔閭が自慢の宝剣を見せたところ、使者は「素晴らしい名剣だ」と褒めはしたものの、刃に小さくかけ たところがあるのを見つけ、「呉は覇者として栄えるも、欠点があるゆえに滅びるだろう」と予言した。

ここで名前の出ている「呉」という国は、周(西周)が異民族に攻められて遷都した後の時代・春秋時代に栄えた国を指します。ことわざの「呉 越同舟」とか「臥薪嘗胆」に出てくる呉の国と同じ国です。(ついでに言うと時代もほぼ一緒)
魯の国の使者の予言ですが、実際呉王・闔閭の時代、闔閭は当時の大国だった楚という国を滅亡寸前まで追い詰め、覇者と呼ばれるほどの勢いを持 ちましたが、越王勾践に攻められて没し、その子夫差が復讐を成し遂げようとするが勾践が命乞いをしたためこれを助け、後に裏切られて滅亡する という運命を辿っています。


2 「拾遺記」に書かれている干将莫耶

お次は拾遺記という本に書かれているお話。こちらは剣の材料について細かく記述があります。
他の本にも拾遺記とさっきの呉越春秋の話を混ぜたようなお話が載っていたりします。

昆吾山というところにウサギほどの大きさの獣がいた。
オスは黄金色、メスは白銀色の毛を持つこの獣は鉄や銅などの金属が好物で、あるとき呉の武器庫に忍び込んでしまわれていたありとあらゆる武具 を食い荒らしてしまった。
呉王は部下に命じてこの2匹の獣を捕らえさせ、腹を割いて調べたところ、その内臓は鉄のように硬かった。
そこで刀鍛冶にこの内臓を材料に一対の剣を作らせ、雄剣を「干将」、雌剣を「莫耶」と名づけて大切にした。


3 「捜神記」に書かれている干将莫邪

上の2つは干将莫邪の製作工程についての話でしたが、「捜神記」ではうってかわって刀工の悲劇とその息子による復讐の話に変わっています。
なお、なぜか舞台も呉から楚に変わっています。
解説書によっては剣を作った刀鍛冶の名前が「干将莫邪」となっている場合がありますが、ここでは刀鍛冶の名前を「干将」、その妻の名前を「莫 邪」とします。

楚王に命じられて名剣を作ることとなった干将は3年もの月日をかけて2振りの名剣を作り上げた。しかし製作に 時間がかかりすぎ、干将はそのことで王から叱責を受け、更には殺されるだろうと考えた。
そこで彼は身ごもっていた妻の莫邪に、「今から剣を王に献上してくるが、恐らく殺されるだろう。もし息子が生まれたら『出戸望南山、松生石 上。剣在其背。(家を出て南の山を眺め、石の上に生えた松を見ろ。剣はその後ろにある。)』と伝えてくれ。」と言い残し、雌剣を持って王城へ 出かけていった。
案の定王は怒っており、更に干将が持ってきたのは二振りの剣のうち雌剣だけだと知って彼を処刑してしまった。

莫邪はその後男の子を産み、名前を赤と名付けた。赤は成長すると父がいないことを疑問に思い、そのことを母に聞いた。
莫邪は事情を話し、干将の残した暗号を赤に伝えると、赤は暗号を見事に解いて雄剣を手に入れた。
以来、赤は毎日毎日父の仇を討つことを考えていたが、ある日楚王は夢に眉間の幅が一尺(約33cm)もある男が「父の仇だ」と言って自分を殺 そうとしている夢を見て赤の企みに気付き、赤を懸賞金にかけた。赤は山に逃げ込み、仇討ちが達せられないことを嘆いた。
するとそこに旅人が通りかかり何事かとたずねたので、赤は事情を説明した。旅人は「お前の首と剣をもらえれば俺が代わりに仇を取ってやる」と いうので、赤は喜んで自分の首を切って旅人に差し出した。

旅人は王に赤の首を差し出し、「この首は釜で煮なければならない」といったので、王はその通りに首を釜茹でにした。しかし3日3晩たっても形 が崩れない。
旅人は「王が睨みつければきっと降参するでしょう」といったので、王は睨みつけるため釜のそばに歩み寄った。そのとき旅人は王の首を剣では ね、更には自分の首も斬ってしまった。
2つの首は釜の中に入り、赤の首と共に溶けて、どれが誰の首かわからなくなってしまった。そこで一緒に埋葬することとなった。
この墓は三王墓と呼ばれ、汝南の宜春県にあると伝えられている。


今でも三王墓が存在するかどうかは知りません。(なくてもわざわざ作ってそうですが)

この話は干将莫邪の話の中でも特に有名なものらしく、捜神記だけでなく列異伝や孝子伝など様々な書物にて紹介されています。ただ、王が楚王で はなく晋王になっていたり、赤の名前が赤鼻や眉間尺になっているなど、細かいところで違っている部分があるそうです。
更に、このお話はなんと海を渡って日本にまで伝わっていたようで、「今昔物語」や「曽我物語」、「太平記」にも復讐譚の顛末が記されていま す。


4 「今昔物語」に書かれている干将莫耶

今昔物語に記されている物語は翻訳ミスなのか伝言ゲームに失敗したいい例なのか、ところどころ不自然な部分があります。
そもそも、「今昔物語」では物語の題名が「震旦の莫耶、剣を造り王に献じ子の眉間尺を殺される話」となっており、作り手の名前が干将でなく莫 耶になっていること、剣を作ったために子供を殺された話、とも読める題名になっていて一瞬勘違いしそうになります。

震旦(中国)の王の后はある夏、暑さに耐えかねて、鉄の柱を抱いて眠っていたところ、不思議なことに懐妊し た。
后は鉄の塊を生んだ。王は名工・莫耶を読んでこの鉄の塊を使って剣を作るよう命じた。莫耶は2振りの剣を作り、そのうちの1振りを王に献上し た。

献上された剣は常に激しく鳴るので、王は大臣にその理由を尋ねてみたところ、大臣は「もともと夫婦剣として作られたために、もう一方を恋し がっているのではないでしょうか。」と言った。王は莫耶の家に使いを出してもう一振りの剣を献上しなかった罪を問おうとしたが、王の使いが家 に着く前に、身ごもっていた妻に「私は王に殺されるだろう。生まれた子供が男なら『南山の松の中を見よ』と伝えてくれ。」と言って、北の門か ら出ていった。そして南の山の大きな木の中に隠れ、そこで死んだ。

妻は息子を産んだ。15になった息子は眉間の幅が1尺あったことから眉間尺と呼ばれた。
息子は父がいないことを不審に思って母にその故を尋ねたところ、事の顛末を知り、父の暗号を解いて雄剣を手に入れた。
眉間尺は父の仇を討とうと考えていたが、王にそれが露見し、山中に逃亡する。しかし、王は多くの使いをやってあちこち探し回らせたのでやがて 一人の使いに見つかってしまう。眉間尺はあきらめて自ら剣で首を切り、使いは首と剣を王に届けた。

首は王の命で釜茹ですることになったが、7日煮ても首は乱れない。王は不審に思って釜をのぞいたところ、王の首がぽろっと自然に落ちてしまっ た。
2つの首は釜の中で争った。使いは不思議なこともあるものだと思い、眉間尺が劣勢になるのを期待して剣を釜の中に入れた。すると二つの首の勢 いが収まった。
使いが釜の中をのぞくと、使いの首までも自然に釜の中に落ちてしまい、やがて3つの首は釜の中でどろどろに交じり合ってしまった。そこで一緒 に埋葬することとなった。
この墓は三王墓と呼ばれ、汝南の宜春県にあると伝えられている。


眉間尺が抵抗もなく自刃したり、首が斬られてもいないのにぽろっと落ちるなど、不自然すぎる点がいくつかあります。
今昔物語の成立以降に書かれたと思われる「曽我物語」(鎌倉時代初期に源頼朝の寵臣・工藤祐経を父の仇としてこれを討った曽我兄弟の仇討ち事 件を綴った軍記物語)では「今昔物語」と同様、刀工の名前が莫邪になっているものの、物語の内容については「捜神記」にのっとったものに戻さ れています。(莫邪が王に呼ばれたのは息子3歳の時、眉間尺の首は父の遺した剣の切っ先を咥えている、王の首が落ちたのは眉間尺が咥えていた 剣の切っ先を吹きかけたから、など多少違う部分はあるけど)


5 「太平記」に書かれている干将莫耶

「太平記」は南北朝時代を中心とした鎌倉時代末期~室町時代にかけての移り変わりを書いた軍記物語です。
こちらの場合は「捜神記」ベースだけども、多少オリジナルシーンが加わったものに変更されています。

楚王の后・甫湿夫人が鉄の柱に寄りかかって涼んでいたところ、不思議なことに懐妊し、1つの鉄の玉を産んだ。 王はこの鉄で剣を作るようにと干将に命じた。
干将は3年の月日をかけて2振りの剣を作り上げた。妻の莫耶は剣を見て、「この剣は仇敵を滅ぼす剣です。私は今身篭っていますが、生まれてく る子はきっと勇猛な男の子でしょうから、1振りはこの子のために残してほしい」と言った。干将は妻の言うとおり、雌剣を息子のために残し、雄 剣を王に献上した。

王は剣を大切に箱にしまっていたが、剣は毎晩箱の中で泣く。臣下達に理由を聞いてみた所、一人が「もともとこの剣は雌雄で1対の剣なので、一 方がいないことを悲しんで泣くのでは」と言った。楚王は干将を呼んでもう一つの剣の在り処を聞くが、干将は白状しなかったため、とうとう彼を 処刑してしまった。

莫耶は彼女の言ったとおり息子を産んだが、その子は顔の長さは3尺(99cm)、眉間の幅が1尺ある顔つきだったので、眉間尺と名付けられ た。眉間尺は15になったとき、父のことを母に尋ねたので、莫耶はありのままに話した。眉間尺は父が去り際に書き残した遺書「日北戸に出づ。 南山にそれ松あり。松石より生ず。剣その中に在り」をみて剣の在り処を突き止め、それ以来復讐を考えるようになった。
しかしそのことが王の耳に届いたため、王は眉間尺を殺そうと軍を派遣した。眉間尺は大変強かったため、王の軍は多くが死んだり大怪我をしたり して、彼を捕らえることもできなかった。
ある日、眉間尺の元に干将の旧知の友がやってきて、「自分も友の無念を晴らそうとしたのだが、王を殺すことができなかった。もしお前が私と組 む気があるなら、持っている剣の切っ先を三寸(10cm)咥えて死んでくれ。私はお前の首を取って王に献上するから、そのときに口の中の剣を 吹きかけて相討ちにするといい。」と提案した。眉間尺は喜んでそのようにし、友はその首を持って王の元へ行った。

王はまず首を獄門にかけたが、3月たっても首は崩れなかった。そこで煮ることにした。
煮始めてから7日目になって眉間尺の目が少し閉じたので、もう恐いものはないと王は釜を覗いた。すると眉間尺の首は咥えていた剣の切っ先を吹 いて王の首を落とすことに成功した。落ちた首は釜の中に入り、眉間尺の首と大変な勢いで争った。干将の友はこの様子を見て、眉間尺が王に負け そうだと思ったので、自分も自ら首を切り落として加勢し、ついに2人で王の首を粉々に砕いてしまった。2人は声を上げて喜び、やがて2人の首 も溶けてなくなってしまった。

眉間尺がえらくレベルアップしてる気がするのは気のせい?
「太平記」では上記の故事のあとに、後日譚として剣の切っ先が秦の始皇帝の暗殺未遂の際に使われた剣となり、更に後に剣が竜となって人の世か ら消えてしまったと言う話も載せています。
秦の始皇帝暗殺未遂事件に使われた剣であるかどうかは、それについて書いてある書物が見つからなかったのですが(「史記」の刺客列伝に暗殺未 遂事件について書いてありますが、私の読んだ本には干将莫邪の名前が出ていなかったので割愛しています/版によっては記述があるかもしれませ ん)、竜に変じたと言う話は中国の書物「蒙求」に載っていたので、紹介します。


6 「蒙求」に書かれている干将莫邪

「蒙求」は様々な故事を収めた短編集のようなもので、歴史を学ぶための初心者用教科書として親しまれた書物だそうです。
その中に「雷煥送剣」と言う話があり、これが干将莫邪の後日譚のような位置づけになっています。

晋の張華は呉の方角からいつも紫の霊気が立つのが不思議で、あるとき雷煥にその正体を占わせたところ、宝剣の 霊気であることだとわかった。そこで張華は雷煥にその霊気が上がっている豊城県の県令に任命し、彼に霊気の上がっている場所を調査させた。
すると監獄の地下から2本の剣が出てきた。それぞれには「竜泉」「太阿」と銘が打ってあった。雷煥はこの2振りの剣を伝説の干将莫邪だと考 え、このうち一振りだけを張華に送り、もう一振りは手元に残しておいた。というのも、雷煥はしばらくしないうちに国は乱れ、張華はそれに巻き 込まれてしまうだろうと知っていたから、2振りとも彼の元に送ってしまえばやがて剣は消えうせてしまう、と危惧していたのであった。
張華は手紙でこのことについて、「なぜ莫耶のほうは届かないのか。手元においておくつもりだろうが、もともと1対として作られたもの、いずれ 一緒になる時が来るだろう」と述べた。

そのうちに張華は難に会って死に、干将の行方はわからなくなった。雷煥も死に、雷煥の子・華が莫耶を受け継いだ。

あるとき華が延平津という船着場を訪れたところ、剣がひとりでに水の中に落ちてしまった。華は懸命に水の底を探させたが、そこには2匹の竜が おり、その体には剣の柄と同じ文様があった。
やがて2匹の竜は天に上り、それ以来、干将莫邪が人の世に現れることはなくなった。

銘が干将莫邪ではありませんが、話の中では両剣とも「干将」「莫邪」の剣であることが示唆されています。
(どちらが「竜泉」でどちらが「太阿」かは書いてありませんでしたが)


7 補足

今回紹介した書物以外にも名剣の代表として名前が出ていたり、「捜神記」や「呉越春秋」、「拾遺記」の話を若干変えたものが載っています。
近代作品でも魯迅の「鋳剣」にも名前が登場し、他のアニメ・ゲーム作品では上記の伝説など関係無しで強い武器・伝説の武器として名前が出てい ることもあります。
ライト○ーバーな莫邪宝剣はフジリュー版だけでしょうけど。

ちなみに、中国で名剣と言われるのは干将莫邪だけではありません。
調べている最中に「荀子」を読んでいて目に付いた名剣、及びそれ以外でも有名と思われる名剣を以下に挙げておきます。

  • 斉の桓公の剣・「葱」
  • 斉の太公(太公望)の剣・「闢」
  • 周の文王の剣・「録」
  • 呉の専諸の剣・「魚腸剣」/呉王僚を暗殺するのに使用

真ん中2つは封神演義でもなじみのある人たちの名剣なのでどんな剣だったか気になりますね。
あとの2つは名前が面白いものだからつい挙げてしまいました。
「魚腸剣」に関しては暗殺の際、剣を魚料理に隠していたから、とのことで、命名の由来で納得できましたが、一番上の「葱」って…?(某ボーカ ロイドじゃあるまいし)
いつかこのあたりの名剣も調べてみたいところです。

また、封神演義にゆかりのある剣で「呉鉤剣」というのがあります(木吒の宝貝)が、これと漢字違いだけど同じ名前の剣のお話が「拾遺記」に 乗っていたので、最後に紹介します。


呉王闔廬は干将が納めた剣を大変気に入り、今度は国中の鉤作りの名人達に干将の剣のような立派な鉤を作ったも のには褒賞を与えるとお触れを出した。
そのお触れを知った呉の国のある鉤師はその褒賞目当てに息子の呉鴻と扈稽の2兄弟を殺し、その血を使って2振りの鉤を作り上げた。鉤師はその 2振りの鉤を闔廬に献上したが、一向に褒賞が支払われる節がなかったため、城へ出かけて褒賞を要求した。
王は「多くの鉤師が自慢の鉤を献上したが、褒賞を要求しにきたのはお前1人。ここには多くの献上された鉤があるが、お前の作った鉤はこれらの とどう違いがあるのだ」と聞いた。鉤師は「わたしは褒賞がほしくてわが子を殺し、その血を使って鉤を作り上げました」と答えたので、王は献上 された鉤の中からその鉤を探し当てようとしたが、王にはどれがそれなのかわからなかった。
鉤師は息子達の名を呼ぶと「王様はお前達の素晴らしさがお分かりにならないようだ」と言った。すると2振りの鉤が鉤師の下にさっと飛んでき た。
王は大変驚き、「朕の負けだ、褒賞を受け取るが良い」と言って百金の褒賞を与えると、2振りの鉤をいつも手元に置き、離さず大切にした。

なんだか悲しいような理不尽なようなお話。
呉鉤剣がこの話に出てきた鉤のモデルかどうかの確証はありませんが、莫邪と関連ある形で紹介されていたので、もしかしたら…?と思い載せてみ ました。
関係あろうとなかろうと、妄想するのは自由だもんね!(いいのかそれで)


参考文献
  • 広辞苑(第6版) 電子辞書版/2008年
  • 中国の神話・伝説/伊藤清司・著/東方書店/1996年
  • 東洋文庫 捜神記/干宝・撰/平凡社/1979年
  • 中国古典小説選2 捜神記・幽明録・異苑他<六朝Ⅰ>/佐野誠子・著/明治書院/2006年
  • 日本古典文学大系 23 今昔物語集2/岩波書店/1960年
  • 日本古典文学大系 88 曽我物語/岩波書店/1966年
  • 日本古典文学大系 35 太平記2/岩波書店/1961年
  • 新釈漢文大系 59 蒙求 下/明治書院/1973年
  • 新釈漢文大系 6 荀子 下/明治書院/1969年

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